○探索期○

アナログな探索期

 この時以降、この摩訶不思議なオムニバスアルバムは、たった一曲のためにちょっとした私の宝物となった。翌年、阪神・淡路大震災により震度6の激震に見舞われた我が家でも、このアルバムは破損せず手元に残った。

「アルバムがあるんなら、探して聴いてみたいな!」

 正直手こずるとは思わなかった。小さな国、日本とはいえ情報量の豊富さでは世界にひけをとらない。アルバムはたぶんすぐみつかるだろう・・・。


 しかし見つからなかった。見つかるどころか、バンドの存在を知る人は皆無であった。国内大手のあのメタル雑誌もすみからすみまで読みあさり、他のCD屋に足を運び、海外の音楽メディアに関する雑誌を読みつづけ、ブラインド、ブラインド・・・と探してみるけどアタリはなかった。そんなこんなで2年が過ぎた。状況はまったく進行しなかった・・・。



デジタルな探索期

 1997年は私にとって特別な年である。機械音痴(死語)な私が、仕事のきっかけもあって、一台のパソコンを購入した年であった。
それまで知らなかったインターネットにも当然ハマり、ついには、駄作ながらホームページを開けるようにもなった。

 ネットを広げていけるということは、ブラオー探索を考えるうえで大きなプラス要因である。自宅に居ながらにして海外のレコード店やトレーダーとコンタクトがとれる。国内にもひょっとしてブラオーを知る人がいて、何かしら情報を提供してもらえるかもしれない。なんせこの情報社会、こんなに心強い味方はいないだろう。

 事実、アナログな探索をしていたころよりは、まだブラオーに対する反応があった。まずはホームページを持つ海外のレコード・CD屋を片っ端からアタックして検索しWant Listを送り続けた。その数およそ300軒。検索機能のあるページではとにかく「Blind Ophans」 を打ち込んだ。ドラッグ&コピーで操作を手っ取り早くする術も身に付いた。
 おそらく「Blind」を冠にするアーティストを世の中で一番よく知っているのは私じゃなかろうか。検索の結果は、必ずしも打ち込んだとおりではなく、ひとつでも単語が該当すれば結果として表示してくれたのだから。

「Blind Gurdian」を筆頭に、「Blind Petition」、「Blind Faith」、「Blind Begger」、「Blind Otis」、「Blind Justice」、「Blind Vengeance」、「Blind Owl」、「Blind Fury」、「Blind」、「Blind Alley」、「Blind Blake」、「Blind Boys Of Alabama」、「Blind Idiot God」、「Blind Light」、「Blind Lemon Jefferson」、「Blind  Mans Holiday」、「Blind Melon」、「Blind Mr.Jones」、「Blind Passengers」、「Blind Pigs」、「Blind Roller」、「Blind Piet」、「Blindside Blues Band」、「Blindford」、「Blindman Quartet」・・・・・ああ、ブラインドブラインド・・・。窓のブラインドさえ恨めしく目に映る。。

 実はまだまたあるBlindたちだが、私の探すBlindはいっこうに見つからなかった。私はこのまま、単なる「Blindバンドマニア」で終わってしまうのか・・・。

 そんななかでも、検索がヒットしたことが3度ほどあった。2度までは「ただいま売り切れ中」であったが、期待を抱かせるには充分な出来事である。そしてついに「CDs(仮名)」というサイトでは、検索の結果、「Blind Orphans」がずばり出てきた。

 おおおおっ! あるところにはあるもんやなぁ!!

 カタログ番号なども判明し、震える手でこのページのWeb Masterに注文のメールを送った。そして翌日には「オーダー受付OK、金送れ」の返信が届き、大急ぎで郵便局から国際為替にて相手方へ送金を済ました。

 翌週、私の元へ一通のエアメールが届いた。震える手で開けて・・・ん?CDがはいっているにしては、包みが薄い・・・。
それには、「オーダーを受けたが、あいにく Out Of Stockなので、為替を送り返します」という手紙と、私が送った国際為替が入っていた。

 「がっ、がっくり・・・・。やっぱし・・・(*_*)。」

1997年〜98年は、こんなことの繰り返しであった。


 しかし、がっくり、ばかりでもない。ホームページを開設していたおかげで、国内の数々のメタルマニアの方々と互いに情報交換の機会が増えていた。大海は洋し、である。自分の身の回りにはいないような、とにかく知識豊富なメタルマニアの多いこと。感服しきりであった。類は友を呼ぶ、とはまさにこのことか。

 英国が誇るHRバンド、MAGNUMを語らせれば右に出る者はいない、とみけんさんもそんな大事な仲間の一人である。彼はとにかく海外のトレーダーやアーティストに顔が広い。彼にもブラオーについて相談し、彼と認識のある海外のマニアにも宣伝しておくとのお話を頂いた。1998年秋のことである。

 ほどなく彼からノルウェーの、とあるメタル雑誌の編集者で、ネット上でも当該雑誌のWeb Boardの主催者であり、また、プログレメタルバンド「SPIRAL ARCHTECT」のドラマーでもあるAsgeir 氏のメールアドレスを紹介していただいた。彼は仕事柄、ブラオーのデモテープを所有しているとのこと。とみけんさんも密かにブラオーを探していてくれたのだった。

 彼もまた、気まぐれなレコード屋たちと取引きをもしていてくれた。こんなにお世話頂いたのに、私がとみけんさんにブラオーを聴かせたのは1999年になってからだった。なんと失礼なことかと反省しきりである。

 1998年末、Asgeir氏に直接メールを送り、同時に彼が主催するノルウェーのWeb Boardに「誰かブラオーを知らないか」の書き込みをした。この、ボードへの書き込みについてはもっと早く思いついて、どんどん書き込めばよかったと思った。レコード店のHPでの検索だけではひたすらアタリを待つだけで、確率も低い。片っ端からノルウェー、イギリス、アメリカあたりのボードに書き込めば、情報ももっと集まったのではないか・・・。積極的に情報を求め歩くのも一つの方法であると学んだ。

 しばらく待つも、Asgeir氏から返信はなかった。一方、書き込んだボードにも何の反応もなし。ポスティングしてくれるノルウェー人はなかったのだ。これだけ探してもだめなのか・・・。いやいや、まだまだあちこちのボードに書き込めば、何らかの反応があるに違いない・・・。ここまで探せばもういいか。いやいや、ネットではまだまだ探し甲斐はあるはず・・・。

 まさに混沌とした「ブラオー探索」であった。

 そして、1999年1月のその日を迎えた・・・。


遭遇期へ