KILLER and CROSSFIRE

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A History Of Mausoleum




以下の文はMausoleum Recordsの創設者であるAlfie Falkenbach氏から当サイトへメールにて寄稿していただいたものの日本語の要約版です。完全な訳文は世界最強を目指すメタルファンジン、Heavy Metal Forces誌Vol.6に掲載されていますので参照下さい。



私は1982年の冬MAUSOLEUM レコードを設立した。それは私が、後にARCADE に買収され最近になってROADRUNNERレコードが買収したINELCOというレコード会社の販売部長職をクビにされて数週間後のことだった。その二人とはStone Holmgren とLeo “Rockstone” Felsenstenで、レコード卸販売事業をやる一方、片田舎の農家の裏手にあるスタジオに関っていた。全てが一つ屋根の下で行うことができるように、その時まで私はそこで仕事をしていた。

私の事務所の窓が道路と同じ高さだったから、私が部屋に居るかどうか外から見ても直ぐに分かった。だから何時でも誰もがこの事務所にふらっとやってくることができた。
ベルギーの友人、Paul Mario Dayは、彼の新しいバンドWILDFIREのディールを求めてWEAの地方事務所を訪問した。そのビルは現在ではベルギーの有力40局の一つ、RADIO CONTACTの本拠地で、今日ではそのなかで色んな音が鳴り響いている。
まぁともかく、彼が未だ自分のバンドを編成中だったから、レコード契約の取り決めがバンド編成を助けとなることを私は感じていた……。

翌日彼等は最初のアルバム「BRUTE FORCE AND IGNORANCE」をSHIVA(ブリュッセル駅近くのボロっちいビルにあるスタジオで、私の親しい友人、Jack Mauerが所有していた)でレコーディングを開始した。私は今でもあのアルバムが好きなんだ。 それは、才能に優れたミュージシャンであり、人間的にも優れた人達との素晴らしい関係を築き上げる、その始まりでもあったんだ。
 完成したWILDFIREのアルバムのことや、自分自身の失職もあって、ある冬の晩に、StonneとLeo、それに私の三人がCHEZ VINCENT(ブリュッセルの高級レストラン)で席について今後を話し合った。長い話をかいつまんで言うなら、その晩の終りまでに数本の高級赤ワインも空けて、気がつけば私はLeoからヘヴィメタルのレコード会社をつくることを納得させられていたということだ。

その翌日、まだひどい二日酔いから十分醒めていないとき"MAUSOLEUM"という名前が浮かんだ。(酔いが醒めていたら、恐らく違った名前を付けただろう。)プロデュースしたのはAlex Gietz(彼のドレスコードはレザー&スタッドと言うよりは寧ろシャーロック・ホームズみたいだった)だったよ。その同じ週にはイタリアのバンドVANADIUMと契約した。とうとう4月にはWILDFIRE, UNDERDOGそしてVANADIUMをリリースし、また殆ど同じ頃だと思うが、最初の二枚のKILLERのアルバム、WHITEHEATのアルバム、それにDANGERのLPを再リリースした。また、それまではベネルクス三国(ベルギー、ルクセンブルグ、オランダの3国)以外では一般に手に入らなかったKILLERの2枚のアルバムも、ものすごい勢いで売れたんだ。

私達はあの小さいワンルームのオフィスから、同じビルの二階の全フロアを占有するまでに成長した。私は日夜とにかく働いた(経済的な状況は全然変わらないのだけど...)そして、どうしても助けが必要になり、私の信頼するINELCO時代の秘書Jackeline Van Den Borreを誘って安全な高給の職を辞めさせて、自営でその日暮らしのへヴィメタルレーベルへと転職させてしまった。次の3年間、私達は離れがたく、良い友達以上の関係となった。私は彼女の献身と骨身を惜しまぬ仕事ぶりにいつも感謝しているんだ。

波に乗って私達はフィンランドのバンドTORCHによる素晴らしい作品、「FREE RAISER」の権利を獲得し、さらにはVANADIUMの2ndアルバム「A RACE WITH THE DEVIL」をライセンスした。また、Leoはもう一つの古典的MAUSOLEUMアルバム、CROSSFIREの「SEE YOU IN HELL」をプロデュースし、OSTROGOTHは彼等の次作「ECSTASY AND DANGER」を出した。私の仲間でSHIVAスタジオのオーナーのJack Mauerは、スペイン人女性のAnnaと結婚してスペイン語もうまくなっていたよ。BARON ROJOは2年間続けて、HEAVY METALフェスティバルで演奏し、しかも「BRUTAL VOLUME」(彼等のアルバム「VOLUMEN BRUTAL」の英語版)を除いて彼等はスペイン語で歌ったのだが、私達は彼等の4枚のレコードを良く売った。また私達はスペインのイベリア半島出の他の二つのバンド、OBUSとPANZERでも成功を収めた。

間もなくLeoはMAUSOLEUM に前ほどかかり合えなくなった。彼は実際上のMAUSOLEUMの社内プロデューサーとなり、ベルギーのFN GUNSとオランダのDARK WIZARD、フランスのFISC、そしてスウェーデンではE.F.BANDとの仕事をした。特にE.F. BANDのことは、いつまでも忘れないだろう。というのもイギリス/スウェーデン混成バンドであるE.F. BANDがレコーディングしたのは、特別寒い冬、スウェーデンの深い森のどこかにある或るスタジオで、気持ちも萎え、手足の感覚も無くなるような凍てつく気温のもとだったからね。続いて出したアルバム「BREAKING OUT」は、なんとも報われない結果となったと私は考えている。
LIMELIGHTはイングランドの北部出身で、その北部の地方レーベルであるFUTURE EARTHから一枚のアルバムをリリースしていた。私はレーベルオーナーのDavid Moffittとコンタクトし、「ASHES TO ASHES」アルバムをMAUSOLEUMから全世界に再リリースすることにこぎつけたよ。

私は暫くの間、英国に事務所を開設をすることを考えていたが、David Moffittがこの事業の長となるべき人だと思っていた。Davidと私は、すぐに最良の友人となったばかりで無く、彼は私の信頼に答えていくつかの偉大なバンドをMAUSOLEUMのカタログに入れる契約にサインしてくれた。それらはWOLF,ACE LANE, CHINAWHITE, SYAR, SNOWBLIND, HAWKWIND,印象的なMcCOY、それに、愛らしく非常に才能がありとてもセクシーな女性ボーカリストMary Ann Scandiffoを擁するアメリカ人のバンドBLACKLACEでといったバンドだった。ロック好きで、元気の良い男なら誰もがMary Annにもっと近づきたいと思ったはずだよ。
暫くの間、私はMary AnnとGary Bardenのデュエットのレコーディングに専念しており、Ian HunterとデュエットしたGENYA RAVANアルバムで見つけた”Junkman”という歌の、へヴィメタル版バラードをレコーディングしたかったのだ。とある理由から、それは実現しなかったのだが...その上、Davidは重要な多数のアーティスト達を、私達の関連子会社レーベルのKONEXION RECORDSと契約させる担当だった。このレーベル名で私達はノンメタルミュージック、主にパンクロック例えばEXPLOITED, the U.K.SUBS, Sid ViciousそれにJAYNE COUNTRYなど重要なアーティスト達のほかBert Jansch とMicheal Chapmanのようなフォークもリリースした。

或る日私はDavidにPRETTY THINGSが本当に好きなんだと打ち明けた。私は60年代の初めから「the wild men of British Blues」のファンで、後になっても更に彼等に憧れていた。これは、全くの初めてのロックオペラで----Pete Townsendが自分流儀の「TOMMY」を出すかなり前だ---。そのほか「PARACHUTE」という、私の最高のお気に入りのアルバムもある。この頃私達は,共通して80年代のテレビシリーズもの”MOONLIGHTING”(邦題は「こちらブルームーン探偵社」、ビデオ化されてます。)このシリーズはBruse Willisをスターダムに押し上げ、またCybill Sheperdの特集を組んでいた。これが起きたのは、Stonne HolmgrenがDavidを、良く実態とあった名前のAMBUSH RECORDSで一緒に仕事をしようと言いくるめ、MAUSOLEUMから引き抜いていった時だ---これについは後で更に触れよう。名前で騙されないで欲しい----この男は生粋のドイツ人で、もし彼がもう少しでも融通がきかなかったら、彼は駄目になっていただろう。 これが間もなく大概の人?私を含めて?との衝突を起こすもとになった。

私達が知り合った時、彼は未だドイツで、資金面で苦しいロック雑誌を出版していた。耳寄りな話は、彼の出版のお陰でAxelがドイツの才能のあるバンドを全部知っているということだった。そこで1984年に私達はデュッセルドルフ地域出の、胸躍らせるような若いバンドWARLOCKと契約した。このバンドのフロントはブロンドで美人のDOROだった。このレコードは恐らくMAUSOLEUMの空前のベストセラーとして歴史に名をとどめるだろうし、彼等が注目に値する国際的なキャリアに踏み出し、ついに一大レコード会社PolyGram(現在はUNIVERSALとして知られている)と契約を交わすに至る。それから彼等が話を交わしたとは思えない。この二つのバンドとは、非常にうまくいった。

その日遅く、私達は彼が、あんまりホットではないアーチスト達、例えばATLAIN, BRAIN FEVER, FACTなどとも契約することを許可した。その後、Thubeauville は自身のSHARK RECORDSレーベルをつくり,VIRGIN STEELE, CHANNEL ZERO, MASSACRA, SEPULTURA, STRATOVARIUS、それに最近AT VANCEなどの本当に凄いバンドと常時契約して、彼の以前の成功が偶然ではなかったことを証明した。私達は友達で居たが、そう出来たのも、近年、彼と仕事をするのを私が何とか避けてきたからだ。ドイツはMAUSOLEUMにとって大事なマーケットだったので、Stonne Holmgrenと私はかなりの時間をそこで過ごし、その結果沢山の人と合うことになり、更に多くの取り決めをドイツのバンド、例えばCUTTY SARK, AXE VICTIMS, BAD STEVE,それにTeutonic Vikingsの代用品FAITHFUL BREATH等と交わした。と言ったら、恐らく私は、そんなことを言う人に、『正気じゃないよ!』だが、彼等のマネージャーBogi Kopecと私は、強い友情を発展させ、今まで彼は私に遠まわしに、バンドの演奏力と作詞作曲の能力を見い出させようとしてくれ、とうとう私を本当に彼等とアルバムを作る気にさせた。

並外れたプロデューサー,ヘヴィメタルのPhil SpectorであるMichael Wagnerが登場、それに彼の助手Udo Dirkschneider、次に今でもリーダー役のACCEPTが入ってくる。そしてACCEPTアルバムの「BALLS TO THE WALL」これも彼が制作し、ミックスしたものだ---は今まで私が聞いたことのあるアルバムサウンドの中で一番パワーがあると思っていた。夕食をし、シャンペンを数本開けた後、私達は彼等の為に、次のFAITHFUL BREATHのアルバムを制作する契約にサインした。彼等の費用は小さな国のGNPにも匹敵したが、結果はそれを正当化するものだった。殆ど20年も経った今日でさえも、最近Michael Wagnerが制作したNUCLEAR BLASTレーベルのHAMMERFALLのようなものを聴いてみると、私には「GOLD ‘N’ GLORY」の痕跡が聞こえてくる。念のために言っておくが、これは褒め言葉だ。私は、彼の製作するレコードを聞くのが大好きだ。それまで1984年は重要なリリースが山積した。「SUMMER LIGHTNING」は、私達がMAUSOLEUMレーベルで出した今までのレコードのうち、疑いも無くベストのものだ。それは80年代のもうひとつの古典的アルバムだと私は敢えて言うが、どんなものだろうか?仕事がそんなに好調なのだから、私達はみんな、お金がどんどん入ってきて、億万長者になっただろうって?確かに多くの人はそう思っていたのだろう、だが実際にはそれは真実とはほど遠かった。

レーベルにいくらかの金を投資したのは、私以外ではたった一人、Etienne Geertsだった。そう、私達はかなりの数のレコードを動かしていたが、供給業者からの請求書の支払期日と、流通業者からの売れたレコード代金の入金日の間を埋めるために、私達は大金を銀行から借りる必要があった。私達がうまく行けば行くほど、銀行も、その関連金融子会社も、ますます私達に貪り付いてきて、私達にはほんの僅かな粗利益しか残らなかった。私達は既に、初代のPINACLEが破綻した時に、3万ドルを償却(ライト・オフ)した。今ちょと名前は忘れたが、私達のノルウェーのパートナーも同じ運命に陥った。私達もまた、自分自身の重大な間違いを犯した。イギリスで私達はSteve Masonが社長をしていたPINNACLEの再生会社を離れ、PRTに販売を任せた。二つのケースとも、私達の売上はがた落ちで、CNRでは、二人の幹部Rik BlommeとMichiel Wolfが果敢にサポートしてくれたにも拘らずである。高利息も、破産による損失と、幾つかの地域での売上の縮小だけでは十分ではないと言わんばかりに, 時代も変わって行った;MTV−時代とBON JOVI流のアーチスト達が到来し、今度はロックバンドのプロモートには金のかかるビデオが必要になった。

へヴィロックミュージックも今や洗練された制作が必要とされ、言ってみれば膨大なレコーディング予算が掛かる様になったのだ。これらは、とても優れていて、今でも私は誇りに思っている。レコーディングに支払いをした後には、きちんとレコードをプロモートする金が、もう無くなっていた。もう自分が食う金も無かった!これは丁度高いスポーツカーを買ったは良いが、ガソリンを買う金が無いのと同じだ。いみじくもと言うのは、彼がFAITHFUL BREATH をMAUSOLEUMのカタログから盗んで行ったばかりでなく、David Moffittを、一緒にやろうと言葉巧みに勧誘してMAUSOLEUMから連れ出してしまった。とうとう、2−3ヶ月たってやっとStonneは自分の会社が、やり過ぎたことに気が付いた。それ以来私達は話をしていない---だが、David MoffittとBogi Kopecとは、間もなく関係を修復した。

それで1985年の終わり頃には、MAUSOLEUMは喉から手が出るほど、現金が惜しかった。それにこのリリースの妥当な売上見込みを約3万本と見ていたから、私達の抱えている問題の、全部でないにせよ、少しは解決してくれるだろうと思われたのだ。一年前に、MAUSOLEUMマニアの絶頂に、KILLER, WILDFIRE, OSTROGOTH, CROSSFIRE, LIONSPRIDE, BLACK WIDOW及びNEAT RECORDSのアーチスト集団で、その頃大きな人気のあった、特別ゲストRAVENが参加する豪華絢爛なものをやった。フェスティバルは私達のアーチスト連をプロモートする大きなショウケースになったばかりでなく、一晩で相当の金を稼がせてもらった。この頃MAUSOLEUMに残っていたのは、Jose Kloek,私の助手Jan De Geestそれに私自身のたった三人しか居なかったのだから、この仕事は、軽視するわけには行かなかった。そこで私達は、FAITHFUL BREATH, McCOY, CROSSFIRE, LIONSPRIDEとTSAも招待した。私達は全フェスティバルを、あとで幾つかのライブアルバムにして売り出すつもりでレコーディングした他、映像権を今は無くなったアメリカのビデオ会社VESTRONに事前に売ったので、マラソンショー全部をフィルムに収めた。

しかしフェスティバルは、落ち込んでいた穴から、私達を掘り起してくれるほどの成功にはほど遠かった。その上、VESTRONとビデオの取引を仲介した、ロンドンのメディア会社FILMTRAXが、この企画からの収益の大部分をごまかし私達を騙した。結局KILLERのマスターテープはミックスされないままスタジオに残り、その年のクリスマスツリーの下にはプレゼントは殆ど無かった。だがこの忌まわしい会社は、死を拒否したのだ。全てのメカニカルなコピーライト(著作権)は一銭残らず支払済みで、最初から録音費用の大部分は、私が自分のポケットから払ってきた。このことが、今にして思えば、神の恵みとなった----というのは、その為にレーベルの崩壊後、幾つかのマスターの所有権は、私に帰属したからだ。私達は約15万ドルという大きな負債を銀行に対して持ってはいたが、私の両親からの援助と、貯金を充当して、個人的に返済した。更に私達は銀行の関連子会社〔これとは私が個人的に契約サインした〕に対して、10万ドル以上の借金を溜め込んでいた。これも私が解決する(10年後ではあったが)義務があった。真実は、大金を失ったのは私自身であって、他の誰でもないということだ。

1986年10月22日ついにMAUSOLEUM RECORDSの親会ELDORADO ENTERTAINMENT &COMMUNICATIONSが正式に破産が宣告され、かくして伝説的ヘヴィメタルレーベル物語の第一部が終りになる。

Alfie FLACKENBACH